schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

二種類の因果について

ショーペンハウアーは因果に二種類あることを明確に区別したし


唯識でもこの二つを区別して論じている


ショーペンハウアーの二種の因果は物質現象の因果と動物や人間の動因つまり意志の因果(すなわち精神現象)であり


唯識においては遍計所執性といわれる分別意識や自我(すなわち精神)が依他起性(すなわち因果)として認識されるようになった


これは世界や物質現象は因果であるが精神現象も因果であると明確に認識されるようになったということであろう


この二種の因果は因果ではあるがまったく種類の違う因果であり殆ど関係しないはずであるというのはだから区別されているからである



因果というのはうまく働きかければ変化させることができるということである


たとえばロケットを作り月に行くとか病気を治すとか経済発展させるというのは物質現象の因果である


そして人間の精神現象も因果なので改善や治療ができるのだが(洗脳の逆である)これは物質の因果ではなく精神の因果によって行われるのである


実際としては知性が因果を治療することは不可能(これが理想と現実のギャップすなわち精神的苦悩である(概念の論理や意味はまた類型が違う、1物質現象2精神現象3論理と意味(4時間と空間)))であるが学問的研究を進めていくということは可能かもしれない


これは精神現象を知的に理解することによってどのように因果として働きかけるのが効果的なのかを探るということだがこれの形態と特に因果の研究を観念論の科学というのである


そして精神現象の原因が記憶(末那識のようなもの)や記憶を作り出すもの(阿頼耶識のようなもの)であることは明らかである


仮説であるが、意志が因果であるとしても記憶自体は知性のようであって従って因果のようではない、これが人間の精神の謎なのだが、記憶自体は因果ではないが記憶を作り出すものが因果として働いているのだろうと思う、ここをはっきりさせることが極めて重要であると思われる、また精神全体は知性や記憶の集合ではなく感情として捉えるべきものと思われる



今の人間の社会と自分とはこの二種類の因果の組み合わせの結果として存在しているとしか考えられない



それに加えて自分の存在はこれは宇宙の存在といってもいいのだが、五感の「直観」である自分の体を含む宇宙(実在論では物質と言われている)と「精神」の他に「主観」という無を仮定しなければ成り立ち得ない


これは文学的表現ではなく学問的分類であるが主観とは宇宙がそれに内包されているのであるから仏教の主張を別用により科学的に表現したものである


主観は直観的知恵でありこれが精神現象を改善する働きを持つがこれが宗教の本質であって主観が単に直観である場合は感性であり感性による美の認識や表現が芸術と呼ばれているとわたしは思う