schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

㊄主体と客体、主観と客観、主観的と客観的など

この㊀~㊅観念論シリーズは、一元的な世界観について雑ではあろうが、男と女についてのセックスのように核心に迫ろうとしたものである。雑なほうが実際として気持ち良いということもあるだろう。


このブログは「唯識とショーペンハウアーから」であり、ショーペンハウアーの主観についての定義から始まっている。定義された存在するものは真実でなければならない。


「すべてを認識するが、何びとからも認識されないもの、これが主観である」


昔から人々に考えられてきたことが、間違ってはいないのだが曖昧ということがあって、これが人類の未熟なのであるが、その言葉が重要であれば、それを明確にすることが哲学の核心的な仕事だったのではないかと思う。
◎(これはその言葉の、対語や類語などの同じと違うの判断であるから分類であり、哲学者の重要な仕事ではないかと思う。論理は哲学者の仕事ではない。なぜなら分類は存在論に関わっていて、論理は科学の命題であっても思惟の形式にすぎないからである。分類には存在の分類と観念の分類があるはずである。分類は知性の原理、論理は知性の法則と言えるだろうが、これがなぜ実在世界に適用できるかははっきりしない。論理は分類で解釈できるかもしれない)


ショーペンハウアーはこのことをかなり意識しており、主観と客観という概念について西洋哲学史をたどって調べてみたのだろうと思われる。彼は西洋哲学史における重要な概念についてこういうことをいろいろと調べているはずである。
◎(ショーペンハウアーは、言語的能力に秀でていてギリシャ語とラテン語を崇拝?していた。たとえばカント哲学批判において、知性における理性と悟性の分類について、この判断は間違いでありこの三つは同一概念であり、本来悟性とは直観認識のことであり、西洋哲学史において一貫してそうであったことを指摘している)


そこで主観に関連して、主体と客体、主観と客観、主観的と客観的という言葉について調べてみた。この翻訳語はおそらく欧米でも同じように使われているはずである。


主体と客体は主観、客観と同じ意味で使われているが、前者は実在的、後者は観念的である。主観と客観は主観的、客観的と同じように使われることがある。実に曖昧に使われているままである。


主体と客体、主観と客観は何かある存在するものを指す言葉であるはずだろう。主観的と客観的はある考え方を指す言葉である。主体と客体、主観と客観が存在者であるときその定義がはっきりしない。
◎(主観的とか客観的というのは言葉による解釈のことであるから、誤謬と真理を含めて無限に多様である。一方、主体ー客体、主観ー客観は、物体、観念を問わず存在するものを指しているのだから基本的に一つであるはずである。主体とは何か?客体とは何か?主観とは何か?客観とは何かが明確ではないままに使われている)


〇認識において直観的なものと概念的なものを、明確に区別しないならそれは哲学に値しないというのも彼の主張である。この間違いは非常に多い。例、神はロゴスである。
〇仏教哲学は考え方の系統が違うということはあるのだが、識は知らされるから来ていて認識のことをいう。世界とは世界認識のことであるが、世界が、唯識になってから六識から八識になって、般若のことを九識ということもあるが、これは両方の意味を持っている。六識の五識(眼耳鼻舌身・識)が直観であるのに対して意識が、八識では意識、末那識、阿頼耶識が概念的なものである。これらが同じ識であり区別されていないというのもやはり知性の未熟からくると思う。


ここで主観と客観という存在するものが、具体的に何なのだろかとショーペンハウアーは考えてみたということなのである。


「主観的と思われることは認識できるが、主観そのものを認識することはできない」


♡そこでこういうことになると思われる。主観はすべてを認識している認識されないもの。客観とは五感によって直観的に認識されたもの。(全体作用はもはや美)。主観的、客観的とは客観が、精神的に記憶、概念、言葉などの概念認識によって意識されたもの。(全体作用が感情)ということなら、主観は認識されることがないので、認識されるのは客観のみということになるのだから、これを客観は主観であるといってもよいし、主観と客観は同一といってもいいし、主観も客観もないといってもいいし、主観と客観は一致しているといってもいいだろう。これしか実在とは言えないのだし、主観的、客観的というのは実在ではないのだから虚構であって、実在する世界は、これは直接認識されるのはということだが、それは直観される世界なのだから一元的であって、哲学としては観念的な一元論となるだろう。


ー㊄おわりー


<主観の一元論としての観念論の認識論>


一元論の観念論では、宇宙はある種の不可知でしかない質量のみなのであるが、それを人間の五感の認識形式で直観することが、宇宙の観念性でありそれが一元的であるということである。もしこの不可知が認識できるとするならば一元論の唯物論というべきものが正しいことになるだろう。またこのある種の不可知は知性によって垣間見ることができるが明らかになるのは無限の中の有限のようなものである。(ショーペンハウアーはこれを意志として認識でき、働きかけることができるとした。私見では物自体の意志と精神の意志は関係あるだろうが別類であろう。すなわち人間の精神的な意志は、生命の意志と言うような物自体の意志とは殆ど無関係なくらいに別類な現象であろう)


<観念の外の実際の宇宙の想像の存在論>


実在するのは物自体のみであり、時間と空間も無いのだから、宇宙はたった一つの質量であり、それが何かは正しく認識する事はできない。その中に地球も生物も人類も自分の体も含まれていて、時間がないのであるから永遠であり、何かしらうごめいており、我々はただ上記の認識形式によって認識させられているだけである。