schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

臨済禅と曹洞禅について

ー前書ー


自然科学や社会科学はともかく、人文科学を客観的に捉えるというのはかなり見解が偏ってしまうと思う。これは医療から主観が排除されてしまうのと似ている。


わたしは専門家ではないので、客観的公平に偏らず主観的に臨済禅と曹洞禅ついて日頃思っていることを書いてみたい。


臨済禅は看話禅、曹洞禅は黙照禅と言われていて、おそらくだが禅宗でこれの本来の意味は看話というのは言葉やシンボルを多用、黙照というのは坐禅を重要視するという事でそういう傾向が初期に自然にでてきたものと思われる。仏教においては坐禅が重要である事は当然なのだが、人と交流したり教えたりするときに言葉や態度などのシンボルは不可欠だろうし。


禅は自由な行為なのだから坐禅ばかりしてたらそれが揶揄されるのも当然なのだが、自我や生死からの自由な行為は、基本として座る坐禅をかなりこなさなければ無理だろうと思われる。ただ作務の方が座る禅よりも重要という事も常に言われるのであるが。


日本では、看話禅は公案禅となり公案に集中しながら坐禅をし、曹洞宗は普通に坐禅をするということだが、この形態はかなり日本化していると考えられる。臨済禅でもただ坐禅をする方が長いのであり、曹洞禅では修証一如と言われている特徴があるだろう。


ー本文ー


曹洞禅で修証一如と言うのは、修行ー坐禅ーと悟りは同じであるという事で、日本文化にその伝統があるので分かる人も多いのだが、これは初心者から上級者まで同じ坐禅をするという事であり、正しい事なのではあるが、分かっていても初心者には実践しがたいー凡人の初心者に坐禅は辛いーのが普通とわたしは思う。


※坐禅が辛いのはしびれや動けない苦痛の他に、何でこんな事をするのか?とかこんな事をして何になるのか?とかいう疑惑や、目に見えて効果は表れないとかいう実際にあるのだが、禅の天才というのはこの点、智慧によって最初から何かを深く確信しているものと思われる。それによって、修行に専心して短期に智慧の完成が行われるものと思われる。このブログの「仏陀の行方」はこんな事について想うところを書いている。


公案禅ができたのは伝道の言葉やシンボルの傾向や、悟りの成長の追体験をしながら坐禅で心境を深めていくばかりでなく、おそらくこの初期の困難を緩和する目的もあるのではないかと思う(私見)。


初心者は坐禅において思考の取り扱いに苦労するので、この時に公案を考える、公案に集中するというのはむしろ容易なことである。自我自体が思考なので呼吸法ー禅では数息観(息を数える)と随息観(呼吸に精神集中)の二種ーより簡単とも言える。


ただ公案禅は一種の技巧や方便なのであり、道元の考えの方が正当と言えば正当だろうと思う。


公案禅は最初にとっかかりやすいという特徴があって、もちろん最後までの修行形態というのも整っているのだが、これは一種のカリキュラムであり、禅のオーソドックなあり方というのは曹洞禅にあるのではないかと思う。

暗殺について

①暗殺なんだから単純な事ではないだろう ー裏の裏くらいまでは普通にあるはずー


②暗殺の真相究明をさせない力が働いているのは明らかである


③②の力がある者が暗殺者の素性を簡単に明かすとは考えられない ーガセとかグルとかーA→CA&C

悟った後で

悟りというのは般若と同じで広い意味を持つ。


分かったというか気づいただけで悟ったともいうし、それだけで般若の智慧ともいう。


しかし究極の意味は完全に悟った事、完全に悟った事の智慧を般若の智慧と言うのだろう。


大智度論などには、般若の智慧には、その無分別智に加えて悟った人の分別智も含まれると書いてある。仏陀その人間の全体の智慧を般若の智慧と言う訳である。


鈴木大拙の「禅の思想」には禅の立場からここいらの話が分かりやすく書いてある。即ち悟り本体の無分別智、無分別智における分別智が無分別の分別、それに加えて、悟りの行為が無作の作である。無意志の意志と言ってもいいだろう。


これらは本来インド仏教にすべて説かれている事であるーただ中国では行為を重んじたー。


ここでこの無分別智は直観智であろうし、分別智は概念智-知性であろうし、今回は触れないが、無作の作は仏教の実践-行為であろう。触れないのは、ここの主題は直観と概念だからであり、宗教ではないからである。


西洋哲学というかギリシャ哲学の母体を作ったのはソクラテス、プラトン、アリストテレスであろう。あくまで私見なのだがソクラテスは人生論、プラトンは観念論的哲学、アリストテレスは実在論的哲学のそれだと思う。その後の西洋哲学にもこの三つの系譜があるはずである。そして私見では人生論は哲学だとは私は考えないー区別すべきである。そして仏陀とイエスは完全に宗教家である。


ここで人生論を除く西洋哲学に、仏教哲学を含めー仏教哲学は涅槃を科学的根拠とした観念論であるがー、漠然と思い浮かべながら


涅槃において根本智、無分別智、直観智が分別智、概念智、言葉を含むときに、それは無分別の分別なのであるから、思考が直感的に行われる訳である。


ーただ無意志の意志もそうであるが、無分別の分別も常に自己はありのままに意識されていいて(無意識が意識されているなどともいうらしいが)行為や思考は自己が自覚されつつ直感的に行われている訳である。



この知性によって哲学がされたときにこれが、このブログの「知性とその創造性について」と「想像力と創造力について」に関連している。



〇ドローンな話 ※


◉哲学の第一の命題
㋑哲学=世界についての正しい記述に、帰納として分類(階層)が働く場合に
㋺悟りそのものー自他不二、物心一如等の直観についての記述を「哲学の第一命題」とする
これは例えば
◉宇宙は自己である ーただ「宇宙」だけでもよいー
ということにできる
㋩その時観念論哲学体系は、仏教哲学を含み第一命題の下位の第二命題群とできるだろうし
㋥その下位の第三命題群として科学や実在論哲学を置くことができるだろう


◎その時その精神の原因論としての何故!
◉何故!人に迷いと悟りがあるのか?
が「哲学の究極の謎」それは「哲学の第一命題へ謎」であり「宇宙=人間の謎」だが、と言えるだろうと私は思う。


※ 飛んでいる

ブロックニツイテ


    →キラワレタ→アキラメルシカナイ
ブロック                →ハッキリシナイ↕ムゲンループ
    →コウギイシ→アキラメルコトナイ

ブッダの行方ークリスマスにブッダを想う2ー

間が伸びたので、これは「クリスマスにブッダを想う」のつづきである。


前書


人類はそれぞれの民族の文化に違いはあっても、常識的に実在論の世界に生きてきた。これは一つの宇宙や世界を、主観が客観を見てるので、自と他が対立してるとして二元論で生きてきたのであった。


その真っ当な世界観は人類の常識であり洗脳され切っていて見事に不幸の泉となっている。


自分という内に対して外があり、世界は物質でできていて心というのもある。そうすると物質や生物は個の集まりである多であって私も多の中の一つである。心はといえば、意味の価値判断として、優秀や劣等、美や醜、の比較などから、一位、二位とか、私は誰それさんよりとか、誰それさんは誰それさんよりとか、相対の中で一喜一憂している訳である。絶望と希望、現実と夢や理想、地獄と天国、孤独や愛なども世界と無関係な個人の観念でしかないのだろう。


これを批判してしまうとこれもそれと同じ柳の下のどぜうになるので、それはそれで良いのではあるが。


前回で書かれようとしていたのは、なぜそうなるのかは分からないが、主観と客観が一致とかいうよりも、宇宙が私になってしまっていてそれ以外とは思えない物心合体症状が現実にあることの有様のゆくえ、仏陀の行方であった。


私は人に悟りを説くほどの資格も能力もないし、そういう事をするつもりもないし、人を助けたいなどという思いも全くない。ただ世間にはそういう事ができる人が結構いて涅槃への道を指導している。ただそういう人たちはこんな事は書かないものなのである。だから珍しい事ではあろう。


それが以下の自分の中で、仏陀はどのようにやってきて去っていくかというような仏陀の行方である。



本文


この話をなぜ書いてみたいかと言うのは、凡夫が仏陀になるという事が実際にあるのだが、これがなぜそうなるかというのは存在的ー心なのか体も含むかとかーなぜそうなるのかとかはよく分からないし、よって原因論的にこうすれば必ずこの結果がきますとも言えないので修養がどんな経過をたどるかを見てみたいのである。


これと殆ど同じなのがこんな話である。ある人生がうまくいっている人がいたとして、その人が若い人に聞かれて自分の人生を語ってみるという事である。そしてその教えとかアドバイスではなく、その人生の変化がどんなものだったのかを語るのである。心がどのように変化してきて今にいたったかということである。


凡夫が仏陀になるという事は長い時間をかけた心の変化でありその過程だからである。



◉流れで、この話題を箇条書きにします


①凡夫が仏陀になる過程で自分の智慧を使うとき、智慧とは何か?自の内と外、智慧と神など。
〇知識や思考は言葉や文章だが、智慧はそうではなく内的な直観である。自分の内と外があると考えるのは普通で、この内と外はよく見れば内は知識と思考でありそれと記憶や想像、、外は客観である実在する世界だが、自分の体は内だろうか外だろうか?智慧は実際には内なる全体的な働きであって、自分の内にも外にも組していないだろう。宗教的には内的な神と言ってよく、外の神の働きは全てこれの反映である。
〇理屈と実際的な話で今回は実際的な話をしたいのだが、つまりこれが宗教だからであり、一番書きたいは④なのである。
〇そこで自分の実際の智慧ー全体的で内的な直観ーだが、これはおそらく分かる人と分からない人がいる事だろう。それはそれでよい。智慧が分かるという人は実際智慧があり、自分の知性は知識の多数の集まりと思考の速さ、つまり記憶や知識の量と高速演算装置でできていると考えるならその人は実際そうなのだろう。
〇宇宙に存在するのは物質だけである。生命の心的なその実質や価値は、存在する物質とは何の関係も持たず、ただ実在として感覚で捉えられているだけと考えられる。その時にこの智慧は、実在としての宇宙である感性やそうではない感情と知性のたぐいを内包していて、その知性の能力のすべてと多彩な交渉をしている事だろう。ひょっとすれば宇宙そのものー物質自体ーとも関係しているかもしれない。
〇このような各自の、世界の全体作用が、凡夫を仏陀に作り替えるのだが、これは現代の知識人なら秀才であるほど理解できないだろう。しかし凡夫の智慧こそが全知であり秀才こそが猿智慧である。
〇智慧が知性でないという事が重要なのは、智慧が賢く知性は愚かだからであり、修養は常に賢の愚の克服だからである。要するに目覚めや救いというのは、智慧が知性をその記憶や無意識を含んで救う事だからである。人生修行と言うのは実際それだけなのである。智慧は人間の智慧なのだからセットで必ず行動が不可欠であろう。これに加えて仏道修行には涅槃をめざすのだから坐禅も付いているというだけの話である。
〇以上の観点から、宗教の教えを見た時に有用なものは全てこれであることが分かるだろう。要するに理性や知性で人を救う事はできないという事、しかし人は理性や知性に流れてしまう事、そして宗教であっても理性と知性の部分ーロゴスーは何の役にも立たないということが言えるのである。



②智慧自体は自分が持っているので探せば見つかるが、仏陀になるには禅定が最短でこれなしでは不可能に近い。


③禅定の長さで修行の結果の時間がだいたい決まる


④◉修養は確実に進んでいるが、一進一退もあり中々分からない。道の半ば程で自分が変化したことが分かってくる。実際変化している。


⑤これは誰でもほぼ同じであるがー漸悟といえるー、その過程で個人によって様々な事が起こり得るー頓悟といえるー


◎坐禅を行と言い、行というのは行為という意味だ。禅定が大切と言っても接心などでも一日数時間、日常的には2~3時間しかできない。ところが坐禅の後の日常的な集中している行為がどうも効果が大きいようなのだ。生きることは行為でありどんな重要も事も行為なしでは始まらないという体験からして坐禅は良い行為なのだろう。


◎智慧と思考は対語である。智慧と感性は類語である。知識があって頭が良い事は智慧と悟りを遠ざけ時間がかかる。これが現代なので悟りへの道は昔より困難である。ただ悟りが生かせれば知識と思考は非常に有用なものとなり世間の常識と同じである。






つづく





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実はこれは私の過去のブログの内容をもっと詳しくするものなので参考までにコピーしておく


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釈尊と同じ悟りを開くためにおおよそ何時間の坐禅が必要か?


2018/08/21 18:33


わたしは若いころから禅や仏教に興味を持っていたが熱心な修行者だった訳ではない。
それだけでも進歩はしていくのだが、


今は熱心に坐禅をしているが怠け者だった昔を振り返り今とからめてちょっと普通と違う視点から坐禅について書いてみると。


禅とか仏教あるいは宗教一般といってもいいのだが、これは自分を本来の自己に気づいて改善させて行き最終的に涅槃へ至ることと考えられる。


最終的に涅槃に至ると言ってもそれで終わりではなくそこから真の人生が始まるともいえる。これを釈迦も達磨も修行中という。


本来の自己に気づくだけなら本を読んだり話を聞いただけでも分かるし、ただしあるじみじみとそこに一定時間身を置くことでそれは確かなものになるのだから、ここで祈りや瞑想或いは坐禅が或いは信仰生活がこれらは行であるが有効なものとなる。これは人生において失敗しつつも誠実に生きて様々な経験をつむことで人間ができてくるというのと同じものである。この気づきというのはすぐにでも可能であり、これを知恵と言ってもいいし神の聖霊の働きといってもいいし人生における何か真なるものに気づくと言ってもよい。


仏教や禅においては涅槃に至るのが最終目的でありまたそれからが本当の人生の始まりであるからもしこれを求めるのならば坐禅は不可欠と考えるべきである。ほかの方法でも不可能ではないのだが、坐禅はこれに至る最短の方法であると言える。


そこでこれからが書きたいことなのだが、まあおおよそな話ではあるが何時間くらい坐禅をすると釈尊と同じ悟りを開けるかという話である。正しく何時間か坐禅をすれば誰でも
釈尊と同じ悟りを開けるのであり、そうでないのは真面目に坐禅をしないからと言える。才能は関係ないが真面目に坐禅ができるかどうかが才能と言えばいえるのかも知れない。


話を分かりやすくするためにいうのだがこれはおおよそ3000時間~4000時間ぐらいだろうと思う。一日一時間の坐禅で10年。10時間だと1年である。おおよそこんなものだろうと思う。知恵に気づくのはすぐ可能だが釈尊の悟りとは精神がすっかり改善されるのだから時間が必要なのである。そしてその過程でも個人個人で様々なことがあるのだろう。


ただし正しく行った場合である。もちろん生活の中で坐禅をしていくのだから上手な気分転換は必要でありその工夫も必要なのは普通の人生と同じである。



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