schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

鶏肉

正月の朝は簡単にお雑煮を作る。私の地方は鶏肉に大根と人参のひき菜で醤油である。
昨日で鶏肉以外は揃ったので今日鶏肉を買ってくれば良い。


その時点で歌がでてしまったのは放し飼いのにわとりのように自然だった。
トリニクニクニク粗末な服で町から町へ、どこへ行っても語るのただ神の言葉よ。


ネットで調べたら道元と同じころを生きた聖ドミニコの事を歌った歌であった。


スール・スーリールというベルギーの人が作った歌で、修道女になったが、修道院でギターを習い音楽の才能が開花した。そして1963年ドミニクが世界的に大ヒットした。音楽活動と宗教活動を続けて成功したが終わりころの人生は不幸だったようである。


わたしが短期間クリスチャンだった頃、教会はアメリカのペンテコステ派のかなり大きなところだった。そこに一緒に住んでいた盲人の若い女性が、宣教師と一緒に家に来たことがあったが、この人が聖書を全部暗記しているというのを思い出した。


これはザピーナッツの歌ではドミニクが盲人の少女になっていたからである。

知性とその創造性について

㋑ヒトの特徴である知性が帰納の下位に論理-演繹があり、哲学の第一の命題を「宇宙は自己である」という事にして、その下位に観念論哲学体系ー例として私のtwitterーがその下位に「現在の学問と科学」があるとする。


㋺知的創造性は、学んだ事から学んではいない考えが浮かぶ事で、㋑を学ぶ時にもこの創造性(見通し)が必要と考えられる。


これは、全体ーその直観と命題ーの中で学んだ事が正しいか正しくないか、全体の中でなぜそうなるのか結局それは何なのか、全体の中でその知的な位置などという「見通し」(帰納的な洞察)なくして、学んだだけでは何も分かっていないと同じだと考えられ、これは小さな知的創造性と言えるだろうと思う。


㋩この洞察が学問としてつながると哲学の第一命題から第二命題の分析たちが生まれ、それから第三命題たちが生まれたというのも㋑だが


㋥「哲学の第一命題について」への何故という疑問は宇宙はなぜ自己になるのかという事で、それが主観と客観の一致ー世界の直観的洞察ーとすればその応用が、それと知的創造性の自得ー世界の知的洞察ーと言え、これは今の自分がより知的、知的創造的になる事と言えると思う。
◎分かりにくい文だがただし正確、これ㋥は「クリスマスにブッダを想う(後半未完)」に関連している
◎㋑㋺㋩㋥全体は、「根拠律の四つの根について」が生まれるまでの帰納部分に関連している


◆㋥についての覚書
直観(及び知性)※に於いて、直感的に分かる知性が知的創造性と考えられるがその時の
直観の定義ー
(観念論)ー五感である触覚、視覚、聴覚、味覚、臭覚が観念的に物自体と結びついている感性
(実在論)ー外界(自分の体を含む)が五感を通して脳の中で色々やっている感性
直感の定義ーすぐわかる事
※宇宙が自己である時、もしくは自己が自己にすぎないと考えられる時に、どちらでもかまわないが、全ての人はいずれかであろう。その時に人と言ってもいいし宇宙でもよいのだが、全ては直観と概念でできているであろう。すなわち直感ーすぐ分かるーのに直観と概念とがある事になるが、この二種についてはtwitterに直観認識ー実在表象、概念認識-記憶表象として書いてある。


@分かり難い話だが一応書いておく。
直観と知性に於いて、直観が冴えた時に知性も冴えるのだが、これが知的創造性(直感)である。ところが直観が冴えることを邪魔しているのが知性のたぐいなのである。つまりはこれが人間の分かり難い所である。これが㋥。


@知的創造も含めた創造力については、それが無意識的に行われているだろう事が、このブログの「想像力と創造力について」に満足すべきものではないが書いてある。


@僭越ながら尊敬すべき専門家の専門分野の豊富な知識と経験は、以上の事柄が漠然とでも分かれば、自分のニューロンのその知識の繋がりが時の過ぎゆくままにその身を任せても、無意識に限りなく深まっていくのだから創造性もそれに続くはずである。そうでなければ大成はできないので、現在が続いていくだけと諦めるべきである。知識とそれからの演繹、推論とからでは創造性としてやれることは限られるからである。



【コラコラム】これは知性の真理(命題)が直感的に直観ー世界と関係するという事である。自然現象、社会現象、精神現象の観察の後の科学的、又はその逆の哲学的であっても、直感的に分かる真理があるという事なので、直感的真理と言えるかもしれない。つまりはこれが直感的に真理が明かされるという知性の創造力なのである。


全くの空想なのだが、これをさらに進めると世界と知性が密接に結びついてるものがあると仮定できる。ここまでくるとこれを直観的真理と言えるだろう。これがあるとしたら、宇宙や世界とヒトの知性が世界の裏で、あるいは脳の中で密接に関連しているかもしれない。これがあるならばどんな事が起こるか?空想なので詳しくは触れないが、事象に於ける知性-真理ーの恣意性が限定されるという事である。又人間の真の意志が真の言葉で書くことができるようになるかもしれない。


これの実用性ー
本能のエゴから発した理性、、の時代、実在論の二元的な世界観が極まって、善を崇拝する者もいれば悪を崇拝する者もいる。これが人類が滅亡するかしないかの危機の原因だろう。それを乗り越えるには変わった新しい創造性が必要であろう。上記はそんな参考になるかもしれない。

アナログとデジタルから見た世界

宇宙はアナログかデジタルかと考えるとよく分からなくなってしまう。


物質が原子からできていて、質量が量子からできているなら宇宙はデジタルという事になろう。


ただこれらに時空の働きを含めたものが宇宙なら必ずしもデジタルではないだろう。
時間はデジタルっぽく空間はアナログっぽいのような気もする。


一方人の認識の方であるが、数字や言葉はデジタルだろう。


五感はアナログだろうと思われるが、ここでまた疑問が出てきて光は八色だとか、視覚は毛様体の細胞の集まりとかとも考えられ、複眼と単眼の区別がなくなる。


音は波長であり、臭いや味は高分子や分子とかいう考えも出てくる一方、う〇この臭いは嗅ぐ方によると考えられる。臭さが分子とは関係ないし、犬と人でも臭さの強弱ではなく質が違うと思われる。ふんころがしの幼虫の事を考えて見ればわかるだろう。ひょっとすると同じ種例えばヒトでさえも嗅ぎ分けるのかもしれない。


人の視覚の色は八種類の複合なのもこれは人だからそうなので動物によって違うし、青や赤の電磁波の波長が感覚として青や赤である必然もない。ただそうなっているだけである。人によってさえ違うのは色もうを考えれば分かる。



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~~後で補完~~~~~~~
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ここで時間が無いので仮説として結論めいたものを書いてみよう。


宇宙は質量や物質でできているが、それを人が認識しなければ何も分からない。宇宙自体が石ころと同じで何も分かっていないので、人がいるから宇宙を理解できる。


ところでここに宇宙を持ち出してきて、大、中、小に分けてみよう。


だいたい我々が直接理解できるのは中の世界である。


この大きさが中の世界は、普通の世界でそれはそのまま存在するものがそのまま認識された世界と言えるだろう。存在するものが存在するまま存在し、認識されたまま認識されていて、存在ばかりでなく、認識ばかりの世界でもない、存在+認識の世界である。


だから宇宙は、存在の面と認識の面を足して考えなければならないだろう。


例えばここで何でもいいのだが、月を考えて見よう。月があのようにあるのは、そこに月は存在していて、あのように見えているのはそれに人の認識が加わっているからであろう。月は決してあのように存在しているのではないと思われる。


そしてどこまでが存在でどこからが認識なのかはある程度簡単にわかるはずである。


ここで月よりも身近な地球に意識を戻すと、地球と物質と生物と人間とその社会は、現在このように存在して、個人の認識によって認識されている。この認識はマスクやワクチンの接種が任意なのと同じようなものである。


ここで人の認識には、同じものー違うことが不可能な事と、違うものー違っていいものー違っていいが正しさが求められるものがあると考えられる。
<喧嘩するにも共有されるものがあるからであり、それが嫌なら認識として平和な気持ちで、存在として自殺したり殺人したりテロしたり戦争すればよくー認識がないー存在とはそういうものである>


そこでこの認識が取り払われた存在ー存在そのものーがどんなもので、認識というものがどんなものかを考えてみよう。


おそらくであるが、存在そのものは、人が①全く手が加える事ができないものであり、②少なくとも変化させることがかなり困難な事であり、③例外的に単純なものであれば変化が容易でありという事かと思われるーあまり重要でないので抽象的ー。
例えば①物質を作り出したり消滅させられない、不死②生命の操作、社会の変化等は容易でないーそれなりの方法はあり例えば戦争、経済成長、政治的謀略、手術、遺伝子の操作による肉体の改造等③化学変化等ー


人間にとって存在とは体であり、認識とはココロと言えるのだが、よくよく考えると体と言っても認識が取り払われた体で......zzzzzz











つづく

クリスマスにブッタを想う

女と男の類似と、相違=差異から、それぞれの本質や真実を見つけることができるかもしれないー私は女がわからないー


そのようにキリストと仏陀、キリスト教と仏教のその類似と相違からそれぞれの本質や真実を見つける事ができるかもしれないが、これは今回ではない。


宗教がイコール涅槃でないなら仏教は宗教ではないし、そうであればこそ仏教は宗教である。又、宗教が信仰なら仏教は宗教ではない。ただ宗教という単語は仏教の事であり神道はそうは言わなかった。これは儒教以上というのを含んでいるが、人間についての根本的な教えと言うほどの意味である。


「赤子のようにならなければ天国に行けない」というのが、文字どおり実在的な天国だけなのか観念的=心的な天国も含むのかは分からないが、仏教では浄土というのははっきり決まっている訳ではないとしても観念的なものである。


<西洋には異端だが無なる神という概念はあって、内なる神という概念はないらしいが、無なる神と内なる神は同じだろう。なぜなら一神教なのだから?無なる神によって世界は現在創造され続けており、内なる神によって人は救われ続けているのかもしれない>


※観念的ー内的でない宗教はないと考えられる。なぜならそれは、自分の外に居てる神が、自分の肉体を死後の天国へ導く救いを含め、自分の心を救うことであろう。自分の外の神が自分の心をどんな方法で救うのかは不明なのだが、とにかく宗教とは自分の心を救う事だからである。どんな場合でも習慣的にも奇跡を除けば肉体を救うためにあるとは言わないだろう。


※仏教での外なる仏と内なる仏はどうだろうか?仏教徒は仏像を拝む場合でも仏像は象徴であり実の仏だとは普通に思っていないだろう。仏とは何かしら自分であり万物でありその良き関係であると思っているのではないだろうか?ー外なる仏と内なる仏は同じで主客同一的であろうー



「赤子のようになる」というのは知識を捨てるという事であり学ぶ事の逆だし、涅槃というのもまったく同じである。仏教は捨てる事であり学ぶ事ではない。だから仏教学や仏教哲学は仏教と種類がまるで違うというのから、宗教と学問がまるで違うことが分かる。


そこで


赤子のように成ることが涅槃になる事だが、これは赤子のような感性純粋、知性馬鹿になることではないのだから、そこには何か個の実在的な変化があるに過ぎないということが分かる。


変化が何によって起きるかと言えば智慧によってだろう。これは分かっている人は誰でも分かっているが、これがなぜ起き得るのかは誰も分からない。これが総合としての哲学のすべてであり哲学の頂点としか考えられないが、それはなぜ宇宙が自分になってしまうのかがこれだからであり、つまりは宇宙と自分の存在の謎がこれだからであると想う。


前書きが長い。


上記は分からない事なので主題というのは、この変化がどのように経過して行くか?という事である。


つづく

魔法瓶について

魔法瓶には


恋した時の愛が入っていて


冷めないようにしてくれているが


なぜ冷めないのかは


魔法なので分からない