schopenhauerのブログの新着ブログ記事
-
-
極めて重要に思われるものが、外なるものなのか内なるものなのかは、極めて重要である。 それが外なるものであるならば、それが自分にとって何の関係があろうか? 重要なものを自分の外におく人は、それを自分で得ようとはせず、希望をもってそれを待ち続ける。 が、それが実現することはない。それが自分の外にあるか... 続きをみる
-
金のないときは、納豆とたまごとヨーグルトで栄養をとる。 たまごとヨーグルトはこの世でもっともおいしい食べ物の一つである。 納豆とヨーグルトはおなかを整える食べ物でもある。 ヨーグルトには、ばななやジャムやほしぶどうを入れる。 フィリピンのひと、やすいばななをありがとう。
-
科学の定義 科学とは命題の真偽の判断をするときに直観をよく観察することをいう。数学(初等幾何学と算数)は内的直観の科学である。 哲学の定義 科学以外の学問を哲学という。ゆえにそれは認識論(論理学)と形而上学である。 存在の最高概念 それは主観、直観、精神の三つである。(客観は、直観と精神の上位概念... 続きをみる
-
愛しています。あなたの体。 あなたの髪と顔。目と鼻と唇。 皮膚。その温かさと冷たさ。 おっぱいと臍と下腹。 おしりと太ももとふくらはぎ。 足と手とその指を愛しています。 こころなんてどうでもいいんです。 あなたの体だけを愛しているんです。 それだけが実在しているんですから。
-
全ては0(無)か1(有)だが、これは直観(世界)と知性(精神)の二つだけでできている。 宇宙(世界)や物質は直観である。それを細分していくと色々なものができてくる。 自分の体とか、山とか川とか、他人の体とか他の動物とか、目とか口とか痛みとか 痒みとか。(これは直観の知的分別であり、その本質は美と妙... 続きをみる
-
それは芸術、学問、宗教である。 芸術とは、あらゆる表象で表現されるものである。表象には体、声、形、色彩、音、香り、味覚、言葉などがあり、スポーツ、労働、社交、戦争、料理、政治、医療、文学、音楽、絵画、教育、芸能、雑学など、学問以外のあらゆる活動のことである。 学問とは、概念による世界の解釈の連合と... 続きをみる
-
-
-
それは、プラトン、アリストテレス、ショーペンハウアーだと思う。 この三人は学者ではなく本物の哲学者であり、月ではなく太陽である。 そしてショーペンハウアーは、カントを得て近代化されたプラトンであり アリストテレスと言えるだろう。
-
-
因果律の対象というのは物質(表象、五識)である。物質の根拠律が因果律である。 数学の対象というのは時間と空間である。時間と空間の根拠律が数学である。数学は現在すごく複雑になっていて、論理的な学問に見えるのは概念が際限なくからんでいるからだろう。 五識は外的直観であり時間と空間は内的直観である。 因... 続きをみる
-
だんだん深まっていった。酔いが。 頂点に達した。 絶頂が続く。酩酊。 絶頂が終わり始める。 だんだん覚めていく。 完全に覚醒した。 酒を飲んで坐禅するときは部屋を暖かくすべきだ。
-
客観的な真理が無味乾燥なのは、それが自分の実在と無関係だからである。 それが技術に生まれ変わって自分を助けることが、根本的な幸せにならないことは、現在の世界が証明している。 でも客観的な真理が、主観的な技術について気づかせてくれるということはあり得る。 主観的な技術とは坐禅である。 ニューロンのつ... 続きをみる
-
一人暮らしをして一年すぎた。素晴らしい。自由だ。楽しい。 ただこの夏、買った野菜の半分を腐らせた。 金銭の得失はどうでもいいが、腐った野菜からこばえが湧いて いつも二十のしみが楽しそうに飛んでいた。 そこでカット野菜の導入に踏み切った。ほうれん草は冷凍だ。もちろん日本産。 洗わなくていいので楽だ。
-
無というのは主観と客観が一致したときに起こる。そのとき主観も客観もなくなる。というよりも逆で主観も客観もなくなったときに主観と客観が一致するのである。これは実在論的な見地である。実際は主観はもともと無なのである。なぜなら客観は主観の表象だからである。これが観念論である。 前回に無の知性における直観... 続きをみる
-
分析命題というのは、命題自身の中にすでに真理が含まれているものである。 「純粋知性批判」は、科学的真理とは何か?を追及した結果生まれた書物であるが、科学的命題の中に、経験的(アポステリオリ)な総合命題のほかに、純粋(アプリオリ)な真なる総合命題があることを発見したものである。 直観的真理というのは... 続きをみる
-
唯一存在する無は因果と時空と意志と言葉を与えられている。 世界から与えられてくるそれらは真と偽が混じりあっていて幸せと不幸を体験させるが 偽にもそれなりの必然と意味がある。 人間の自我は感情でありその偽から与えられてくる意志と言葉の不幸は 精神現象と呼ばれている。 (唯一存在する無とは主観のことで... 続きをみる
-
四つの根拠律の対象とは、物質、時間と空間、知性、意志である。 悟りで、物質、時間と空間、知性、意志がどのように変化するか見てみよう。 物質というのは、表象(識)である。五感に現れるものであり、唯識でいえば眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、である。一番具体的に分かるのが直接の客観といわれる身識である自分... 続きをみる
-
充足理由律は根拠律ともいう。「根拠律の四つの根について」は最初はショーペンハウアーの博士論文であり彼の認識論である。 真の命題(真理)に繋がりがあるのを学問というが、それを繋いでいるのが根拠である。根拠にあるいはその対象に四種あることを論じている。 物質についての因果律、時間と空間についての数学、... 続きをみる
-
-
-
-
-
唯識というのは世界はただわたしの識(表象)であり、それは眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、意識、末那識、阿頼耶識でできており、それらは繋がっていて種子の何等か繋がりとか組み合わせでできているというのかどうかは分からないが、今はそうしておく。 というのはわたしは唯識を論じようとしているのではなく、完全な... 続きをみる
-
唯識の実験は、「実在は観念か?物質か?」を確かめるものである。 世界は、原子でできているか?種子でできているかということである。 宇宙が実在論的であれば、宇宙は物質(原子)できており、観念論的であれば観念的なもの(種子)でできているだろう。 これは、実在論的科学では宇宙は物質、原子でできているとい... 続きをみる
-
それは外界を否定しているかどうかであるが、ショーペンハウアーは外界を否定するのはばかばかしいと明言しているし、唯識では外界を否定している。 わたしはここに疑問を持ったので摂大乗論、唯識三十、二十を読んでみた。が外界が無いと言っている訳ではないので安心した。要するに認識されたものは外界ではないと言っ... 続きをみる
-
-
唯識は「世界はわたしの識である」が基本となる命題。意志と表象としての世界は、「世界はわたしの表象である」と「世界はわたしの意志である」だ。 世界の意志の方は、カント哲学で認識できないとされる物自体の話なので、まったくの形而上学であり、本当かどうか疑問のあるところだ。ただ輪廻あるいはカルマを世界意志... 続きをみる
-
「意志と表象としての世界」の最後の版で、ショーペンハウアーは大乗の般若波羅蜜に言及している。当時のヨーロッパではまだ大乗仏教が一般的でなかったのだから、仏教を熱心に研究していたことがわかる。 悟りといっても現実にはレベルがあって、完全な悟りは自我が消滅して感情がなくなり知性が純粋的になった状態であ... 続きをみる
-
人間の理解においては、西洋哲学よりも仏教哲学のほうがはるかに深い。 ただ科学が生まれたように、西洋哲学は緻密である。 これは仏教哲学が観念論的であるのに対して、西洋哲学は実在論的であるからだ。 世界の(実在が)観念的であった場合、世界の探求自体が人間の探求となる。 仏教哲学を西洋哲学で解釈しようと... 続きをみる
-
意志と表象としての世界の第一節で、「世界はわたしの表象である」の説明があったあと 第2節はこう始まる。 すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である。 この主観の定義がショーペンハウアー哲学の最初の洞察である。